良かったと、思った。
 今更隠し立てしたところで如何仕様もないのだから云って仕舞うが、あの、薄暗い灯りの点る、陰気な、埃っぽい公会堂を出て、快晴の空を見た瞬間、私は確かに、 良かったと思ったのだった。
 検査は、色々な項目があったが、私は初めの体力検査で早くも恥を曝すこととなった。米俵を担ぎ上げて一定距離を走る、という検査で、私は、身体は至って健康で、 毎日しっかりご飯も食べられているのだから大丈夫だという自負から出る余裕の表情で、米俵へ手を添えたのだが、幾等力を入れても一向に米俵は、浮こうとしないのである。 初めから地面に米俵をくっ付けてあるとしか思えなかったが、しかしそんな筈はあるまい、地面を踏み締め、尻を上方へ突き出して、両手に渾身の力を入れるものの、矢張り 米俵は地面から離れない。「もういい」という、半ば呆れた風の検査官の声を聞いて、私は米俵から手を離した。掌に、くっきりと痕が残っている。検査官の、私を軽侮する様な 声色に、苛立ちを覚えたが、検査の際は只管に愚鈍に成っておれ、という父の言葉を思い出し、何とか遣り過ごした。
 身体検査は、例に依って身体は至って健康である上、ご飯もしっかり食べているのだから、今度は大丈夫であると確信していた。ところが、今度も私は引っ掛かった。肺が悪い というのである。これまで生きてきて、自分の肺が悪いだなんて、考えたこともない。極稀に、息苦しく、無理に呼吸をすると肺が縮こまる様にちくちく痛むことがあったが、そ れは単に、その時私の居た空間の空気が汚れている所為か、そうでなければ肋骨か何処かの痛みだとばかり思っていた。結局、肺浸潤だと云われたが、私は絶対に間違いであると、 これは今でも、信じて疑わない。
 身長と体重は特に問題無かったものの、視力で、私は又しても駄目であった。尤も、これは自覚があり、ある程度覚悟していた為、別段驚くということもなかったが、しかしこ れだけの項目に引っ掛かるとは、流石に思っていなかった。最後に、方々から噂に聞いていた、あの、言葉では到底云い表せぬ、恥辱極まりない検査を受け、全てを終えた。
 私は、丙種合格であった。あの公会堂の中で丙種は私を含む三人のみで、私達の他は皆、甲種か乙種であるらしかった。彼等はこれから、その屈強な肉体を御国の為に、懸命に 駆使することだろう。私の、米俵一つ担げずに検査官から失笑を食らう様な貧弱なそれとは、正しく雲泥の差である。貧弱な身体には貧弱の魂が宿るのか、分からないけれど、 それでも私は矢張り、惰弱な人間であった。入営しなくても良いという結果に、確かな安堵を覚えた。良かったと、思った。
 家に帰り、結果を報告した。母は、残念だと云いながらも、丙種と聞いたその後の表情は、今朝に比べると随分柔らかなものになった。帰宅した父に結果を告げると、父は、私 がどの様に検査を受け、どの項目に欠陥があり、どの様な気持ちを抱いたか、一切を存知しているという風な顔で、卓上の夕飯に目を落とし、一度も私の顔を見ぬ儘、「入営すら 出来んとは何だ、一家の恥だ、愚か者」とだけ云って、箸を取った。
 父は、或る企業に勤めていた。頻繁、という程ではないにしろ、部下などが家に来て宴会めいたことをするのも、稀ではない為、それなりの役職に就いているのだろうと推測し ている。今回の戦争で需要が高まり、父の勤める会社は大きな利益を得ているということである。しかし、私は父がどの様な役職で、どの様な仕事をしているかなど、詳しいこと は何一つ知らなかった。父に訊けば簡単に分かるのだが、私は父と、余り深く会話したことなど無かったし、それに訊いたところで、今更何だ、莫迦者、などと云われるだけであ ろう。
 私は、父が、嫌いであった。会社では或る程度の権力を有し、偉ぶっても批判など受けない所に居るのかも知れないが、帰宅してきてさえ同じ様に偉ぶるのを、私は良く思って いなかった。確かに、母も私も、父が仕事をして貰って来る金で生活している。父の御蔭で近所に恥ずかしくない家に住み、それなりに身形も整え、良い物を食べることも出来て いる。有難いことだと思う。だが、それは一家の主として当然の責務であろう。何の考えも無しに、母を娶った訳はない。当然の責務を誇示して、居丈高に振舞う父を、私は理解 出来なかった。そして、その様に威張る父に文句の一つも云わず、只々従順でいる母も、私には理解出来ないのだ。居間に居る時は元より自室に居る時も、何枚もの襖と空間を隔 てた先から僅かに聞こえてくる横柄な言葉の端々と、それに対応するか細い声に、私は何時の間にか、苛立ちの様なものを感じていた。



 検査後、私はほぼ毎日、自室に閉じ籠っていた。母は私が入学試験の勉学に励んでいると思い込んでいた。検査が合格だった場合は理科を、不合格だった場合は文科を、受験す る積もりであると以前から云っていたのである。丙種は合格だけれど、召集はされぬだろうと思った為、私は文科を受けることにした。父は又しても私を、愚か者と云い、激しく 叱責した。兵器開発が出来る理科学生の方が、上等だと認識しているのである。私の兄が理科学生で、現在、徴兵を猶予されて勤労動員しているのが効いている様であった。父は 兄に一目も二目も置いていた。その、一目も二目も置く息子の直ぐ下の弟が、丙種で、尚且つ文科に進むというのは、父にとって如何仕様もなく恥ずかしいことであったらしい。 流石に、この気持ちは分からないでもない。一家から、非国民が出るも同然なのである。けれど、理科になんて受かる見込みも無かった上、興味も、絶無に等しかった。私は、作 家に、成りたかったのだ。他の職業には一切、成りたいとも、成れそうだとも思わなかった。結局、私は父の命令に従おうとはせず、自室に籠って、毎日原稿用紙と向き合ってば かりいた。偶に部屋へ這入って来る母は、論文の習練と勘違いをしている様であった。そんなことをしていて試験に受かる筈は無い。私は見事に落第して、自室に籠る日々が再開 された。
 毎日机に向かっていても、小説は、中々完結の目処が立たなかった。枡目を埋めることばかり躍起になり、次第に、自分でもよく分からない展開に陥るのである。一旦筆が止ま るともう駄目で、畳の上に寝そべり、惰眠を貪るなどして仕舞う。それでも諦めないで、次の日には再び机に向かうのだが、一向に筆は進まず、気が付けば私の座蒲団は、枕の用 途に使用することが通常となっていた。
 小説は進まずとも、時間は滞りなく過ぎて行く。寝そべると、青々とした桜の若葉がよく見えた。その葉が揺れて、部屋の中へ、初夏の、未だ涼しい風が吹き込んでくる。居間 からは、母が聴いているラジオの音が、途切れ途切れに耳へ届いた。これ程に間延びして、長閑であるのに、この国の至る所で、戦火が絶えないのだという。空襲警報が鳴って、 庭の防空壕へ這入ることは何度も遣ったけれど、何れも原稿用紙一式と本を数冊抱えて、さて偶には趣向を変えてお外で物書きでも致しましょうか、といった具合の、何とも締まり の無いもので、これ位なら別に構わないが、目に見えて食べ物が不足して行く為、それを何とかして欲しい、などと思っていた矢先の出来事であった。
 夜、警報で目を覚ますと、既に家の外の道は騒がしかった。何か何時もと違うと思い、慌てて蒲団を蹴り上げた瞬間、何処かから聞いたことの無い轟音、正しく轟音としか表現出 来ぬ様な、大きな音が、体中に響いた。私は、何を思ったのか咄嗟に、机上の原稿を引っ掴んで懐に仕舞い込み、急いで庭へ出た。先ず、空の異様な赤さに面食らった。顔にぴしぴ しと当たる、熱く乾いた空気が、気持ちを急かす。外の道から聞こえ来る、人々の土を蹴る音、何台もの荷車の軋む音、時折混じる叫声。足が竦んだ。父と母の姿を捜していると、 家の中で気配がした。縁側に回ると、畳の上を靴で走り回る、モンペ姿の母が居た。私は母に手を貸し、幾つもの鞄やら風呂敷包みを、防空壕へ入れていった。何時の間に準備して いたのか、母は必要な品々を鞄などに詰め込み、空襲に備えていたのだった。平素母を、只、父に傅いているだけの人だと思っていた己を恥じた。程無くして、火叩きを手にした父 が、家の中から出てきた。父の顔をまともに見たのは、久し振りであった。
「外は道が混んでいるから駄目だ、此処に居る方が良い」と云い、父は防空壕へ這入って行く。母と私もそれに従った。壕の中で、父から、近くに砲弾が落ちたのだと聞かされた。 先刻の音はそれであったらしい。
 外では、依然、奇妙な轟きが、風の向きによって近くなったり遠くなったりして続いている。人々の声も絶えない。情けないことに、手足の震えが止まらなかった。薄暗い壕の中 で、煤けた手を見ながら、私は初めて、死を意識した。昨日までの、畳に寝そべる自堕落な己を、思い切り引っ叩いて遣りたく思った。今までの、自分のだらしなさを悔いている内 に、眠ってしまい、母に身体を揺すられて目を覚ました時には朝になっていた。外へ出ると、家は綺麗に焼け残っていた。隣近所も無事であったけれど、少し行った所では、もう一 切が、無くなって仕舞っていた。本当に、何も、無いのである。再び、私の身体に震えが生じた。絨毯爆撃というのは、大袈裟な表現でも何でもない。もう駄目だと、思っていた。



 戦々恐々とした日々を数日過ごした後、戦争は終わった。幸い、兄も、秋田だか山形だかに嫁いだ姉も、一家全員が無事であった。それは大いに喜ぶべきことであったけれど、そ れからが大変であった。父が、解雇されたのである。父の勤める企業は、所謂財閥であった為、解体と共に解雇者も大勢出て、父もその一人だったのだ。仕事一筋で、全てを仕事に 注いできた父は、会社の容赦ない、無慈悲な仕打ちに悄然となり、以前の如き厳めしさなどは、見事に消失して仕舞っていた。母の話では、それなりに貯えはあるらしいので、当面、 金の心配は無いとのことであった。だからと云って、この儘では、何れ逼迫することは必至である。兄は、勤労動員に行っていた研究所でその儘研究員として雇用されることとなり、 既に家を出ていたので、今この家で稼ぎに出られる人間といえば、最早私以外に無かった。父が再就職するということも考えられないではなかったが、今の萎萎とした父では、到底 無理であった。これまで堕落した生活を送っていた私である、当然、働きに出ることに気が進む筈も無かったが、母が或る日何気無く漏らした「私も、何か、見付けないと不可いか しら」という言葉が、実に堪えた。何としても働かなくては、と思った。
 其処から、私は奮起した。毎朝早くに起き、日中は外を歩き回って、働き口を探した。これまで散々怠けていた所為か、以前に比べて随分、疲れ易くなっていた。昼までにはもう 疲れ果てて、建物の入口や階段などに座り込む始末だった。腹が減っている所為でもあったかも知れない。戦中より、敗戦後の方が、食糧は不足している様であった。
 或る日、辛うじて焼け残ってはいるものの、損傷して崩れ掛けた銀行の入口に座り込んで、私は街を見ていた。至る所に戦火の痕が残る街である。街には、平日の昼間であるとい うのに、人が溢れ返っている。ふと、この中で、職を持っている人間は一体どれだけ居るのだろう、などと考えた。この時間にうろうろしているのだ、きっと殆どが、失業者に違い ない。皆が皆、職と食べ物を求め、徘徊している。良い学校を出ている人間も、中には大勢居るだろう。彼等も一様に職を探しているのだとすれば、無学の私などに勝算など、有る 筈が無い。考えが其処に至った途端、こうして毎日阿呆の如く街を歩き回っていることが、無意味に思えてならなかった。私は次の日から、又、自室に籠り切りになった。
 けれど私は、最早これまでの私ではなかった。学歴を有している人間と同じ土俵で勝てぬなら、別の所で勝てば良い。私はもう一度、小説を書き始めることにした。幾つかの雑誌 社へ送るのだ。嘘か真か知らないが、雑誌社は何処も、書き手を欲しがっているという噂も聞く。単なるお遊びで終わらぬ様な、しっかりとした小説を書こうと思っていた。勿論、 新聞の求人広告欄を見ることも欠かさなかった。学歴の無い人間など彼方此方に居るのだから、それなりの仕事も在りはするのだけれど、如何せん、私には体力が皆無であった。力 仕事は出来そうにない為、自然、職種はかなり限られた。
 小説を書きながら、偶に良い条件の求人広告を見付けては面接を受けに行く日々が、一月程続いた頃、某新聞社の隣に在る、「パリ」という洒落た外観の喫茶店に採用が決まった。 給仕なんて、客の席へ珈琲を運ぶだけの、極めて簡単な仕事だと思っていたのだが、実際働いてみると、先ず、長時間立っていることが如何に苦痛であるかを思い知らされた。足の 痛みをおくびにも出さず、店を訪れる全ての人に弥勒菩薩の如き笑みを湛え、常連の顔と名前と嗜好を即座に思い出し、気に食わぬ客を巧くあしらうのである。一月働いた頃には、 逃げ出したい気持ちで一杯になっていた。しかし、若干厚みのある、給与と書かれた茶封筒を店主から手渡され、私は気を取り直した。家へ帰って、貰った給与を渡した際の母の、 嬉しさと申し訳なさが入り混じったという風な、強張った、それでいて慈愛を含んだ笑みを見ると、ふ、と肩の力が抜けるのだった。厭な事や腹立たしい事が、全て、取るに足りぬ、 如何でも良いことの様に思えた。それで、私はまた明日から頑張ろうと思うのであった。
 その繰り返しが、半年程続いた。全ての仕事を熟すことに然程苦労は覚えず、常連の顔を思い出すことも、簡単な作業となっていた。常連の殆どは、隣の新聞社に勤務している者 である。私は密かに、彼等を羨望していた。物を書く、ということへの憧れは、ずっと私の中に在った。現に、私は此処で給仕として働きながらも、小説は書き続けている。疲労に 因る眠気に襲われる為、少しずつしか書けないが、それでも毎日、家へ帰って、原稿用紙の前に座ることだけは欠かさずに続けていた。
 或る日、新聞へ載せる小説を公募する、という話を、新聞社の人間から聞いた。奇しくもその前日の晩、長い時間を掛けて書いた小説が、完結したばかりであったのだ。私にはそ れが、運命だとしか、思えなかった。私は早速、入念に読み直しをした後、新聞社へ原稿を郵送した。新聞社には知った顔が多い為、「巴里久治(ともさとひさ はる)」という文筆名を用いることにした。態々断るまでもないが、喫茶店パリの給仕、という洒落であった。
 何事も起こらぬ、平凡な日々が続いた。原稿を郵送して暫くは、何処か気持ちが落ち着かないで居たのだが、それも直に無くなった。私自身、原稿のことなどすっかり失念してし まった頃、それは突如、私を襲ったのだった。
「それにしても、あれは酷かったな。ほら、あれ、何て云ったっけ――パリだ、パリ」
 三人の、新聞社の人間であった。
「ともさと、だ。巴里と書いて、ともさと」
 瞬間、視界が不鮮明になる。皿を持つ手が震え、合わせて、珈琲が椀の中で静かに波立った。
「あれは何とも云えんな。態とああいう手法を取っているのか、何なのか……」
「文がてんで繋がっていないのだ。何が書きたいのか、さっぱりだった」云いながら、一人が煙草に火を点ける。「まあいいさ、大賞は決まったんだから、他は如何だってさ」
 大賞の詳細を知ることが出来るかも知れなかったが、私は直ぐ様、踵を返し、彼等の卓から離れた。そんなこと、もう、如何でも良かった。只々、みっともない己が堪らなく厭で、 直ぐにでも消えて仕舞いたいと思った。恥曝しの居所を、宣伝しているも同然の文筆名なのである。早く、何としても此処から、消失しなくてはならぬと思い、そして、決意した。 私はこの日を以て、店を止すことにしたのだった。
 最後の給与で、近所の乾物屋の二階に間借りした。四畳半の、日の光が入らない為にどの畳も腐り掛けている、劣悪な部屋である。当分の間、何時もの時間に家を出るとその儘、 此処へ来て、昼間はずっと居座ることにした。店を止したと、家に云いたくなかったのである。
 自分の文章を虚仮にされたことで、私は半ば、自棄を起こしていた。如何にでも成れという思いで、同じ文筆名、一言一句その儘の文章で、あらゆる雑誌社へ原稿を送り付けるこ とにした。私には矢張り、あの、彼等の批評が、俄かには信じ難かったのである。奴等は所詮、新聞を書く為の文章力しか持ち合わせては居らぬのだから、文学という分野の文章な ど、余りに分野が違い過ぎて、分からぬだけなのだ。そうとしか、思えなかった。
 ところが、幾等待っても、雑誌社からは何の音沙汰も無い。書き手が要るというのなら、早々に連絡を寄越せば良いものを、と悶々として過ごしていた時、乾物屋の女将から一通 の封書を受け取った。或る大きな、雑誌社の名前の入った封筒であった。小さく震える指先で封を切ると、一枚の上等そうな便箋が入っていた。恐らく、女性の筆で、典麗な文字が 並んでいる。読んで、私は便箋を取り落とした。残念ながら、当社誌の気風とは、そぐいません為、云々。無駄に美しい文字が、途端に憎たらしく見えて仕方なかった。畳に落とし た便箋を、凝と見ていると、名前の漢字を間違っていることに気付いて、更に憎たらしく思った。本当は、然程不快でもなかったのだけれど、その一瞬間は、それが有るまじき事の 様に思えて、正気に戻った時には、厚手の便箋が散り散りに破かれて、辺りに散乱していたのだった。
 連絡があったのは、後にも先にも其処だけであった。そろそろ見切りを付けて何かしら仕事を探さなければ、家へ渡す金は愚か、間借りの家賃すら払えない。若干の焦りを感じ始 めた頃、乾物屋の二階へ、私を訪ねて来る人があった。此処の事は、誰も知らぬ筈である。何よりも、家の者に此処を知られることを懼れていた私は、突然の訪問者に、警戒心を抱 きつつ、慎重に襖を開けた。薄暗い板間に、見知らぬ男が屹立している。家族ではないことに一先ず安堵しながらも、私はその男を熟視した。光源の無い所でも、彼の襯衣やズボン の薄汚い様子が見て取れた。何処かで汚した、というより、何日も洗っていないという風な汚れ方である。その割に、髭はきちんと当たっている。
「いやあ、これは頽廃的だ。誠に無頼な作家の部屋といった感じですな」
 開口一番、彼はそう言い放った。見掛けに比べて、声は未だ若い。私と同年代か、若しかすると少し下なのかも知れない。
「不可い不可い、申し遅れました」云いながら、彼は胸元から、少し縒れた名刺を差し出した。眞旬實樂會(しんしゅんじつらくかい)、 という、全く無名の雑誌社名が記されている。
志木村(しきむら)という者です」さらりと述べた後、「貴方の筆名がまた良いですな、洒落ている。ありゃ、パリのキュイジーヌ、 でしょう? キュイジーヌってのは、如何も、飯の意味だそうで。パリの飯ってな、一遍食ってみたいなあ」
 知識は有る様だが、如何せん、粗野な青年である。
 彼はその様な無駄口を挟みながらも、私に雑誌の書き手を依頼したいのだと、来訪の意を告げた。眞旬實樂會などという、得体の知れぬ所へ原稿を送った覚えは無い。けれど、 あの時は私も捨鉢になっていた為、何処何処の雑誌社には送る、送らないなどと、一々思い巡らすことなどしていない。雑誌社と見るや、有名も無名も考えず、一心不乱に宛名を 書いて、出したのかも知れなかった。私はぐるりと思案した後、必要な金が、経緯は如何あれ、望んでいた物書きの仕事で賄えるなら、云う事は無いという結論に至った。何処か 引っ掛かりを感じながらも、私は二つ返事で引き受けた。志木村青年は、編輯長にどやされずに済みます、と云って、飛び上がらんばかりに喜んだ。未だ仕事の一つも熟していな いのに、一丁前に面映い気持ちが湧き上がる。
「そうだ、先生、これから飲みに行きませんか? 折角うちで書いて下さるんですから、御馳走させて下さい」
 私は、これも二つ返事で承諾した。酒など碌に飲んだこともないというのに、先生、という敬称で呼ばれたことで、面白い程、有頂天になったのだった。
 夜の街も、酒も、殆ど、この日が初めてであった。家へ帰らなかったのも、この日が初めてであった。



 そして、私は駄目になった。
 酒の味も、女の買い方も、志木村くんに教わった。否、だからと云って彼が悪いとは云わない。そういう訳では毛頭無い。悪いのは、私の心である。
 酒の店で、隣の席の他人が、その連れと話していたことや、寝物語に女から聞いた話を材料に、虚構に虚構を重ねて、意味の不明な奇憚に仕上げて、稿料を稼いでいた。眞實會 は、所謂カストリ雑誌を刊行している所であった。
 若し、以前の儘の私なら、こんな不埒な所業など、しないどころか、未だこの世界すら知らずに居ることだろう。以前の私は純真で、愚かだった。世の中を何も知らず、只々、 模範的な至高を追い求めている、御目出度い人間であった。
 今はこの、乾物屋の二階の、年中薄暗く黴臭い四畳半で、粗悪な酒に意識を絡め取られる感覚に陶酔しつつ、連れ込んだ女の、艶やかな姿態を組み敷いた際、女の饐えた匂いと、 ささくれ立った畳の腐り掛けた臭いが混ざり合って、それがふ、と鼻先を掠めた瞬間、えも云われぬ背徳感に囚われて、私は、狂った様に、愚かになるのだ。
 清冽な水は、濁ると元には戻らない。私も、もう、元には戻れない。
 稿料は、直ぐ様、酒と女に消えるのだった。家には、何時から金を入れなくなったか、もう憶えていない。酒が抜けると決まって、両親に会いたくなった。もう莫迦なことは止 して、真っ当に生きよう、愛らしい嫁さんを貰って良い家庭を作って、酒も、もう止めようと、その度に思うのである。しかし一先ず当座の金を手に入れるべく、興味を湧かさせ る為だけに、無駄に猟奇的扇情的な刺激を含ませた駄文を書き殴っている内に、次第にくさくさしてきて、気付けばまた、酒に女に逃げているのだ。
 母は、如何しているのだろう。父なんて、もう鮮明に顔を思い出すことすら、難しくなっている。あの人は、今にして思えば、相当に立派な、出来た人間だった。父は私を、よ く愚か者と罵ったが、あれは本当であった。何も、間違ってなどいなかった。私は、一家の恥で、丙種合格にしか成れぬ、愚か者である。
 階段を上がってくる音がする。聞き慣れた足音である。きっと志木村くんで、次の原稿の催促をするに決まっている。そして私はまた、粗悪な虚構を組み立てて、酒に女に、耽 溺するのだ。





(120219)