雪国へ向かうことになった。時節は、正月の喧噪覚め遣らぬ、睦月初旬である。向かうこととなった、とは申せ、何か行かねばならぬ所用や、理由が在る訳ではない。 只、突如として、行きたくなったのである。それ故、何の手筈も整えては居らず、当然の如く、駅を発つまでに諸々の事柄で手古摺った。
 必死の思いで、何とか電車に飛び乗ると、無事乗車出来た安心感からか、今度は腹が空いて不可い。全く以て気忙しい身体であると思う。呆れ返るも、矢張り腹が如 何にも気になって仕様ないので、自席で落ち着く間も無く食堂車へと足を向けた。
 漸く自席へ腰を下ろした時、窓の外では、雪が僅かに降っていた。私の住んでいる町で雪を見ることは、先ず無い。現に今日駅を出た時も、コートの端々から食み出る 顔や首や手指に接触する空気が、痛い程に冷えて耐え難いにも拘らず、上空はといえば、一向に寒さを感じさせぬ晴天振りであった。雪は、電車が前へ進むに従って次第 に濃度を増して行く。空も、雪と大差無い色合いに変わり、境界が判然しなくなった。山間を通る際には、随分雪の量が増した様であった。側の棚田へ、容赦無く、雪が注がれる。 直ぐ脇の光景である筈なのだが、全体が霞掛かり、薄様を透かした風に見える。棚田の奥に位置する山々に至っては、墨絵の山水図の如く、薄く白い。
 同時に、窓の外側に雪の粒が幾つも貼り付いて行く。綺麗な円形になれば良いのだが、何れも此れも、斜めに潰れた形で貼り付いてしまう。こうして眺めると、随分猛々 しい雪の玉の様に思えるのだが、実際のところは、電車が走行している故、そう貼り付くしかないのであり、雪それ自体は柔く緩やかなものなのである。
 車窓が、一層に白く成る。歩一歩、我が身は雪国へと、引き寄せられて行く。



 駅に着くと、既に俥が、提灯を提げて待っていた。「直ぐ其処ですので」と、俥夫が膝掛けを私の腿へ素気無く置きつつ云う。構外へ出ると、矢張りと云うべきか、其処 いら一帯、屋根や街燈や、その他何処を見ても、全く只々、白で埋まっている。華奢な造りの欄干などにさえ、その形に沿って細やかに雪が積もる。街を行く人は、疎らで ある。地面は舗装された道路であるが、云わずもがな、此処にも雪は積もっている。勿論雪掻きは為され、脇道に比べれば大いに整えられている。しかし、何せ雪は未だ降 り続いておる為、如何も、切りが無い様に思う。左右にこんもりと造られた雪の小山は、道形に延々と続く。それらから放たれる冷気の所為か、無風であるにも拘らず、肌 に触れる空気は殊更に冷たい。とは申せ、単に寒いということではない。高山等に滾々と湧く清水を髣髴する、清廉の冷たさが、俥が進む毎、私の頬を切る。
 当然なのだが、私の住んでいる町とは、矢張り違う。俥夫の云う僅かな距離でさえ、私の身には大いに堪える。天鵝絨の膝掛けを此れほど有難いと思ったことはない。平 素は、毎度毎度手渡されるものの、如何も用途が判然せず、煩わしく思っていた位であったのだ。大方、女性の為のものであろうという意識であったが、今日漸く使い熟す ことが出来た。
 雪は依然、空から落ちてくる。車窓から見たものと比べると、粒自体は幾分小さく、その分水気が少ない様である。無論、それはこの俥の幌にも降り注がれ、若しかする と、既に多少は積もっているのかも知れないが、しかし音らしい音は一向に届かない。これが雨であれば、こうは行かぬ。ばたばたという無遠慮な音を矢鱈と立てるので、 如何も不可い。なかなかどうして、雪とは優しいものである。
 程無くすると、宿が見えてきた。尤も、此処を訪れるのは初めてなのであるから、宿の位置や外観を知らせたのは俥夫である。彼の云う通り、駅からは然程離れていない様 であった。間口の広い木造三階建、塔屋の在る、若干和洋を折衷した雰囲気の漂う建物である。大通りと宿の狭間には、用水路の如き小川が流れている。その上に掛かる反 橋を渡ると、物音を聞き付けたのか、屋号の書かれた硝子戸を引いて、中から女将と思しき人、続いて仲居らしき人が出てきた。荷物を手渡し、名を告げ、室に通してもら う。足下へ冷気の纏わり付く廊下を抜け、宛がわれたのは、二階の一室であった。這入って先ず目に付いたのは、よく磨かれた、紫檀の卓。電燈の淡い暖色を受けて、焦げ た飴か、或いは色の濃い琥珀の如き具合である。卓の直ぐ脇に在る火鉢には、既に炭が焚かれている。その突如の暖かさに、身体は上手く順応して呉れぬ。途端に鼻が緩く なり、耳朶は矢鱈と痺れている。茫とする私を余所に、室へ案内した仲居は、一人彼方此方と動き回る。「お茶を淹れましょうねえ」を云い云い茶筒を開けると、如何やら葉 が足りなかったらしく、二言三言述べて直ぐ出て行ってしまった。一先ず着替えようと、未だ冷気を含んでいるコートと洋服を脱ぎ、鞄から何時もの袷を取り出す。
 帯を締めながら、何気無く窓の外を見遣った。矢張り雪は降り続いており未だ止む気配は無い。白に染まった、三角や四角に見える屋根が、幽かな凹凸を繰り返し連なっ て行く。遠くなる程に起伏はなだらかになり、奥の方では一切の境界が曖昧に、滲んでしまっている。空には一面、白く厚い雲が垂れ込める。雪で視界が悪い所為か、雲の 襞というものが全くと云って良い程見受けられず、何か、膜の様なものを、全体に張り付けてある風である。
 窓の向こう側に広がる景色は、絵画の様に、静止している。只、黒白の濃淡明暗だけが鮮やかな、世界である。硝子一枚を隔てているだけであるというのに、然もつい最 前まで私も向こう側の人物であった筈なのに、何故、これ程までに、神聖を覚えるのであろう。唯一雪だけが、真直ぐに、只々、地上へと落ちてくる。或いはこれは、雲の 端々が欠落した破片なのではなかろうか。
 静謐。炭の焼ける音だけが、低い所で微かに鳴っている。
 少し視点を下に遣ると、雪が厚く整然と載った欄干の向こうに、又しても綺麗に白く成った、反橋が見えた。私が俥で渡って来た橋である。漸く気付いたが、室は玄関側 に面しているらしい。其処も、今は誰一人通る者が無くひっそりと静まり返り、宛ら立体模型の様に整々としている。良い部屋を宛がわれたものだと思った。
 作り物の如く全てが静止している中、眼界の下方で、僅かに動くものの存在を認めた。白い着物、否、白無垢を着た女の、後姿である。すっぽりと綿帽子を被っている為、 此方からは、一つの白い物体が蠢動している様にも見える。女は、緩々と、橋の方へ向かう。あの恰好で、一体、何処へ行こうというのか。
 先程から雪の量が、若干ではあるが増えている。女は、傘を持たぬにも拘らず、依然、歩みを止めようとはしない。然程距離がある訳でもないというのに、女の姿が、遠 くの景色と同じく霧掛かり、雪に馴染んで行く。無意識に、もっとよく見ようと、私の目は細くなり、指先は窓へ触れる。硝子は、電気の如く鋭く、冷えていた。室温が高 いから、余計にそう感じるのかも知れない。如何も先程から、頭も、茫としている。
 指の先の方へ意識が移動し始めた時、不意に女が、橋の中程で立ち止まり、此方へ振り返った、様に見えた。また少し雪が増したらしく、見通しは頗る悪い。細かい粒が 躊躇うこと無く、眼前に降り続く。私は、全てを忘却し、只々目を凝らして女を見た。
 女には、雪の色が、染み込んでいる。着物や綿帽子、所々少しずつ見える肌の色その全てが、悉く白く、そして曖昧である。顔立ちは勿論、首筋や手足と着物の境界、そ して女と後景の境界、全てが判然しない。一切が白い世界の中で、唯、女が引いた紅だけが、只管に紅い。
「お客さん、お茶、入りましたよ」
 突如、嗄れた女の声が私の聴覚を刺激した。反射的に振り返ると、卓を挟んで向こう側に、先程の仲居が急須を持って坐していた。適当に礼を云い、もう一度外へ目を遣 るが、女の姿は、既に無い。
「あの」自然と口が動き、言葉を発する。「今日は、祝言があるのですか」
 頓狂な質問だからなのか、或いは私の挙動が奇怪しいのか、仲居は目を見開いた儘、只「いいえ」とだけ云った。
 仲居は程無く室を辞した。再び静寂に包まれる。私は湯呑みを手に持ち、また窓の側へ立つ。矢張り、女は居ない。
 湯呑みの熱が未だ残る手で触れた窓硝子は、一層に冷ややかであった。既に指先は、僅かに麻痺を始めている。この儘指の先から、するすると溶けて行く妄想が、一瞬間、 意識を支配した。
 頭は、依然、茫としている。
 




(110504/修正・120115)